花魁を語る上では外せない!今はなき江戸を彩った吉原遊郭とは?

花魁を語る上では外せない!今はなき江戸を彩った吉原遊郭とは?

花魁の歴史を知っていく上で、必ず出てくるのが吉原という場所です。

吉原とはどんな場所だったのでしょうか。

今回は、そんな花魁と吉原の歴史や関係についてご紹介します。

知っておきたい!花魁の歴史と吉原とは

ここでは、花魁と吉原の歴史についてご紹介します。

花魁の歴史とは

花魁とは

 

花魁とは、かつて存在した吉原の遊郭で働く最高級遊女のことを指し、「おいらんとこの姉さん」という言葉がなまり、花魁になったと言われています。

しかし、はっきりとした語源はわかっておらず、「花魁」という漢字は当て字です。

では、花魁とはどのような人がなれたのでしょうか?

花魁になるためには

花魁になるためには

 

花魁になるためには、吉原でいくつかのステップを踏まなければなりません。

禿(かむろ)

禿(かむろ)

禿(かむろ)とは、「新造」になる前の女性たちのことを指します。

吉原の女性がこっそり生んだ子や、山村、漁村、農村などから売られてくる子供が大半を占めていました。

連れてこられた子供は、それまで大変貧しかった子が多く、「吉原で働いて売れっ子になれば、白米が毎食食べられる」ということに驚く事も多かったと言われています。

振袖新造(ふりそでしんぞう)

振袖新造(ふりそでしんぞう)

振袖新造は、水揚げ(男と床を共にすること)をする前の見習いのことを指します。

姉さんの座敷に一緒に上がって、三味線の稽古を見てもらうなど、女郎の見習いとして勉強をする時期だったと言われています。

この振袖新造の中で、上り詰めたものが花魁になったそうです。

花魁

花魁

振袖新造をクリアすると、ようやく晴れて花魁になれます。

しかし、花魁になるためには美貌は当然ですが、加えて教養が大変重要になってきます。

実は、花魁の中にも大きく分けて「呼出し」、「昼三」、「付廻し」というランクがあります。

これは、容姿や教養のグレードによって分けられていたと言われています。

番頭新造

番頭新造

番頭新造は、花魁に付き添って身の周辺の世話、外部との交渉などのマネージャーのような仕事をしていました。

番頭新造になると、既に年季(何年間奉公しますという契約)が明けており、大体30歳前後の女性が多かったようです。

花魁に厄介な客のあしらい方を教えるなど、花魁にとって大変頼りになる存在でした。

吉原の歴史とは

吉原とは

出展 :Japaaan

吉原とは、現在の浅草の裏にある「吉原遊郭」のことを指します。

今は浅草の裏に位置していますが、もともとは日本橋の人形町 にあり、かつては遊女町や傾城町と呼ばれていました。

吉原の遍歴

吉原の遍歴

出典:浅草観光のオトモ

日本はまだ江戸時代の1617年、吉原遊廓は現在の日本橋で、江戸幕府公認のもと誕生しました。

しかし、1657年に江戸で発生した明暦の大火で人形町の遊郭は焼失していまい、今の浅草に位置する場所に新設されました。

吉原の現在

吉原の現在

出典:浅草観光のオトモ

現在は、当時の建物の面影は残っていません。

しかし、「吉原大門」「衣紋坂」といったような名前が残っており、当時どこに何があったかは、ある程度名前で判断できるようになっています。

また、花街としての面影も残っており、浅草では芸者さんを見かけることもあるでしょう。

花魁は現在、春に行なわれる“浅草観音うら一葉桜まつり”で練り歩く姿を見ることができます。

花魁と吉原は密接した間柄だった

花魁と吉原についてご紹介しましたが、いかがでしたか?

吉原は、今はその姿を見ることはできませんが、名前や風習で残っているところもあるようですね。

花魁についてもっと知りたい方は、こちらの記事も参考にしてみてください!

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